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【深読み】永田裕志と中西学とベルトとG1初優勝と。【選手論シリーズ】

田裕志が好きだ。

 

https://www.njpw.co.jp/wp-content/uploads/2016/10/nagata-392x523.jpg

(引用元:新日本プロレスオフィシャルウェブサイト)

 

なぜ、こんなことを言い出すかと言えば、YouTubeのおススメで、

何故か、2015年の「THE NEW BEGINING in SENDAI」の

IWGPインターコンチ戦、中邑真輔VS永田裕志の煽り動画が上がってきたからです。

www.youtube.com

 

このシリーズのインターコンチといえば、札幌で内藤哲也選手とタイチ選手がやりますが、4年前には中邑選手と永田選手がやったんですね。

 

 

で、改めて、

 

永田裕志が好きだ。

 

 

 IWGPタッグを巡る第三世代の抗争

 

ボクがプロレスを見始めたときはnWoジャパンやTEAM-2000、橋本真也選手と小川直也選手の一連の抗争時代。

 

 

その一方で、かなり少数派だと思いますが、IWGPタッグ戦線に熱狂していました。

 

 

今なお、新日本プロレスの「本流」ではないにしても、人気は高い第三世代が、

タッグマッチでしのぎを削っていた時代。

 

 

 

荒々しい猛牛スタイルに加え、ムーンサルトやチキンウィングスリーパーなど、

見た目とは裏腹に、細かな技も魅せる天山広吉選手と、

 

ラリアットとダイビングエルボー、ライディーンバスターなどの

少ない技数で試合をつくる、ヒールながらド正当な小島聡選手のタッグ、

通称「テンコジ」。

 

同世代の中では一番最初に海外修行に行き、会社からの期待も大きかったが、

突然の平成維震軍入りによりヒール覚醒した小原道由選手と、

 

世代的には一つ上で、ヤングライオンによる前座試合のなかで、橋本真也選手との熱い戦いで「第一試合のベストバウト製造機」とまでいわれながら、そのキャリアのほとんどをヒールで過ごした、「ナチュラルボーンヒール」

Mr.バックドロップ・後藤達俊選手のタッグは「狂犬」や「犬軍団」の名で活躍。

 

レスリングエリートであることから、UWFインターとの抗争時には長州力選手のタッグパートナーに選ばれるほどのストライカーであり、今なお、新日本プロレス随一のキック&サブミッションファイターである永田裕志選手と、

 

同じくレスリングエリートで、バルセロナ五輪にも出場した正真正銘のエリートながら、野人キャラでスマッシュヒットを飛ばし、同世代で誰よりも早くG1を制した、

中西学選手のタッグ。

 

 

この3組のタッグがIWGPタッグのベルトを賭けて、熱い試合を魅せてくれた時代でした。

 

永田裕志&中西学の時代

 

その中で特に好きだったのが、永田裕志&中西学組でした。

 

圧倒的なパワーを持ち、アルゼンチンバックブリーカーという回避不能で、ほぼチートな要素のある技の説得力をもつ中西学選手と、

 

強烈なキックと流れるようなサブミッション。

そして、「七色のスープレックス」と辻よしなり氏の実況をして言わしめた、

 

バックドロップ、ジャーマンスープレックス、ノーザンライト、裏投げ、キャプチュード、フロントスープレックス、フィッシャーマンと、

すべてのポジションから投げるスタイルの融合は、ボクの目に焼き付いて離れませんでした。

 

更に、試合開始前に、永田選手が中西選手の髪をぐしゃぐしゃにしながら鼓舞し、最後は背中を叩いて気合いを注入する、恒例のパフォーマンスも大好きでした。

 

ふり返ると、1年にも満たないタッグ王者期間でしたが、「プロレス初期衝動」の

一つなことから、未だにこの頃の試合を見ると熱くなります。

 

 2001年の永田裕志

そんな永田裕志選手の歴史の中で、「個人的に好きな永田裕志」が3つあります。

 

1つは、2001年のG1クライマックス

 

 

プロレス界にはたくさんの名言があります。

「オレたちの時代」とか「これからはイデオロギーの戦いだ」とか、

「お前、平田だろ!」とか・・・

 

そんな語り継がれる名言もさることながら、自分自身にだけ刺さる言葉もあります。

 

その中の1つが、「オレじゃダメなのか!?」

 

 

「あすなろ白書」の木村拓哉さんではないですよ?

 

 

この発言は永田裕志選手がしたものです。

 

2001年G1クライマックス。前年度覇者の佐々木健介選手は不参加ながら、

武藤敬司選手が2年ぶりに参戦したこの大会。

 

永田裕志選手は武藤敬司選手と並んで優勝候補の一角として注目されていました。

 

2000年の永田選手は、タッグからシングルプレイヤーに転向したり、

今の「飯塚さん」ではない時代の「飯塚高史」選手と、

UFCファイターのマーク・コールマンマーク・ケアープロレスルールで戦ったりと、話題の多い年でした。

 

 

それを受けての2001年G1クライマックスでしたが、

 

開幕から2連敗してしまった永田裕志選手。

 

確か、コンディションが悪いわけでもなく、むしろ好調で迎えたと記憶している

シリーズだけあって、そのストレスは最高潮にあったと思います。

 

そんな中、2敗目を喫し、控室に帰る道中、この言葉を言いました。

 

当時、冷静沈着なイメージだった永田選手が、テレビカメラや記者に対し、

 

 

「オレじゃだめなのか!?」

 

 

 

次の時代の王者になりたいという思い。

しかし、その思いが結果として残せないふがいなさが爆発した言葉。

 

 

ワールドプロレスリングでこの永田裕志を見て以降、ボクは永田裕志という男が好きになりました。

 

悔しい気持ちをあえて見せずに、飄々としている人もカッコイイかもしれません。

 

しかし、悔しい気持ちや、勝ちたい気持ちを露骨に言葉で出す姿だってカッコいいんです。

 

 

泥臭くたっていい、カッコ悪くたっていい。

 

 

カッコ悪いことこそカッコいいんだから。

 

 

そこに「戦い」があるから。

 

 

永田裕志選手は、その後のリーグ戦で快進撃を見せ、優勝決定戦へコマを進めます。

 

決勝の相手は、やはり武藤敬司選手。

 

この時代の武藤敬司選手は、新日本プロレスから一旦離れ、WCWでグレートムタとして活躍し、帰国後はスキンヘッドにしてファンの前に姿を見せた頃。

全日本プロレスに参戦し、太陽ケア選手やドン・フライ選手、馳浩選手らと共に。団体の垣根を越えた”悪ガキ”ユニット「BATT」を結成し、再び武藤敬司ブームが起きていた時代である。

 

だれしもが、「武藤敬司、久々のG1優勝」を予想していた時、

永田裕志とボクだけは違った。

 

永田裕志が絶対勝つ!

 

序盤は、武藤ムーブに翻弄され、自分の試合が作れなかった永田選手。

しかし、相手に付き合うことなく、キックやサブミッションでチェンジオブペースすると、

フィニッシュとなった「ナガタロック2」でギブアップ!

 

ニアロープではあったものの、顔面を強く締めあげられ、片腕をロックされている状態。

ロープエスケープしようとする武藤選手の「心を折った」、最高の勝利だと確信しています。

 

 

「オレじゃダメなのか!?」と自身のふがいなさを、他者へぶつけることしかできないくらい悔しい時期を乗り越え、キャリア9年でつかんだ初の「シングルタイトル」。

 

しかし、この後、

 

「プロレスを地に落とした戦犯」としてバッシングを喰らうようになりました。

 

 

 


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